昭和43年9月22日 夜の御理解


 昭和43年9月22日夜の御理解を頂きます。
 茂雄さんから、聞かして頂いた話ですけれども、丁度二日間ほどご無礼しておられ二日目に***先日の大雨の日にくにおさんと二人で外に出てもうそれこそ下こしまで濡れるぐらいに濡れて帰った。今奥さんは娘さんのところへお手伝いに行っておられる。嫁は今お産で里の方へ帰っておる。それで二人で風呂を湧かす。一人は夕食の支度をする。それはもう忙しかったというわけですね。ところが茂雄さんが風呂の方の用をされる。くにおさんがお食事の用意をされる。それまではよかったんですけれども、味の素と塩とを間違えてですね。味の素をたくさん、塩と間違えてせっかくの煮たものがどうもこうもならんことになった。味の素が多すぎたんですね。塩と間違えて本当にまあ女のありがたさがようわかるというて、それからこれは、もう如何に***でいろいろなものを入れて***味の素が過ぎたもんですからね。それが悪かったかどうかしらんけれども、それからこれはもう如何***いろいろな物を入れて**味の素が過ぎたもんですからね。それが悪かったかどうかしらんけれども、それからその晩から、腹が下った。***それから、今朝国雄さんが朝参ってきておりましたが、帰られて話をされる。お父さんあなたは*目時代とは元気がのうなった。とにかくあの濡れた時、あんときあなたが元気で参っとたら、こんなことなかばってん。あんとき、やっぱりあんたがご無礼しとるけん、こげんこっしゃった。言われて見れば、負うた子に教えられた様にですねと言うことであったんですけれどもね。私たちはね、時々そのやはり味の素と塩と取り違える様なことを日常生活の中にしておるのではないでしょうか。これはもう私は真心があるというかもう私は日々ごげんしておるのにところが味が悪いときにはやっぱり味の素と塩と間違えている様な事を日常生活の中にしておるのではないでしょうかね。これはもう私は真心があるというか、もう私は日々ごげんしておるに、ところが味が悪いときにはやっぱり味の素と塩と間違えていることをまず、思わにゃあいけん。わからん。なかなかそう意味ですね。私どもは教えを本当に頂かにゃあいけん。勿論そういう時に気づかして頂くことですけれどもね。もうこれはまずい。これは辛い。これは味が過ぎるぞと信心も出来んのにとこういうおかげを頂いてかだろかと言うときもあるです。ですから、そういう時に、私は自分の信心を振り返って見るとですね。どこに間違いがあるかとどこに間違いであるかと確かに自分は親切であり、真心であると思えておるんだけれども、それがよい味わいでないとするならば、これは間違いないです。それは、お食事のお惣菜を女の人が作ると同じなんですよ。ところがその私の家内ではないです。けれども、今日卵焼きだった。塩がからすきとです。家内に文句とことです。全然、私は使こうとらんですよ。**えてしてそうです。**辛すぎるとそげんばかなことはないですよ。ああいうときにですね。よしなら入れすぎただろうと言えば、別に責め立てるものではないのですからね。家内は私は全然使こうとらんですよ。家内は自分が作っておらんでした。けれども、そういうところからですね。何か間違ってくるようですよ。先日も私がお月並祭の前、朝私はお夢を頂いた。それがとにかく豊美の声と勝彦の声、もう「助けてくれ-」と。助けてくればってん。助けて呉と言う声に聞こえたんですからね。窓を開けてじっと眺めておったんですね。外を眺めたところが大水がどんどん入ってくる。兄弟二人が足をとられてから、助けてくれか、何かしらわからんようなさけびごえだったんですね。それで私は忘れていました。そして、御祈念が終わってあちらに下がってから、丁度皆さんがお茶をしてくださり、豊美さんのお届けを聞きながら、「お父さん、今朝こんな善をみましたよというて、話したことです。そしたら、それこそ言うならば、**実は私もその時間に夢を頂いた。それがですね。誰がしめているか自分がしめているかわからんばってん。首を絞めて殺される夢を見た。それで自分ながらも何んともかんともいえん。声を出していわば、助けを求めているところじゃったとこういう。本当にこういうふうにおかげを頂きすぎておるからね。信心も出来んのにこのようなおかげを頂いておるから、言うならば、水とはお恵と言うお恵み過剰だ。頂きすぎておる。だから、そこんところをお互い慎重にお粗末ご無礼ならんように。信心も出けんのに、このようなおかげを受けておると言うようなけんきよな日月が過ぎればね。決して塩と砂糖と間違えるような事はないです。ところがね、私どもがね、うかつにしておるから、間違える。間違えるから、結果がよくないでしょ。おいしくないでしょうが、辛すぎるでしょうか、甘すぎるでしょうが、目的の次第のそのものが、だから問題がここにこうして出来ると言うことが問題がね、。そういうものが積み重ねて、出来るとですよ。いわゆる味が悪い、お惣菜がそこに出来ているようなもんです。そういうことをなら、茂雄さんがお届けする前に昨日あげな事いうたから、そのことをお願いしたそうです。そしたらね、お夢**これはね、まあ、いうならば、一生懸命働いておるときですね。**本当言うなら、神様がですよ。ちゃんとおぜんばいしてくださってね。お吸い物もあれば、おさしみもある。いわば、山海の珍味でままにならして頂くおかげを頂かにゃあいけんけれども、久富さんのお宅の場合はあれもおかげ、これもおかげと言うようなおかげを頂いておる。けれども、神様の目からご覧になりゃあ、まだまだ修業中のまだ働きよるということなんです。ですから、ままになる腹いっぱいになるけれども、まだ山城の漬物でいっぱいになる時代だから、まだ、**落としてはならん。力をぬいては出けん。たとえば、そういうところに腰掛けるところからですね。次の問題が又、待ち受けておる。それがね、問題が待ち受けておるけれど、その問題がね、本当にただおかげだけにせずに力にしたり、徳にしたりすることが出来るんです。そういう時には今日の秋山さんの事故の事なんかでもそうです。あれだけの熱心な信心させて頂いて、まして合楽に向こうて来ておる時ですから、もう神様のご都合に間違いない。おそらくかずえさんの事だから、おかげを頂いたとか、途端に相すみませんとか出たと私は思うたです。けれども、何とはなしにおかげ急ぎをしよる。私は丁度若先生の御祈念が終わってから、御理解を頂こうかと言うときでした。清志さんがやって来てから、唯今かずえさんが事故にあいました。こうこうですから、という分ですね。けれども、私の心の中には、はあそれはということもなかった。けれども、私は御理解を説きながら思ったんですよ。はあ、これはおかげを頂いたと思うんです。というのは、私の心がね、30分なら、30分の御理解が一つも乱れなかったんです。もう平日の通り平常通り御理解がスムーズに聞いて頂くことが出来た。その後に聞かせて頂いたんですけれども、まあ、おかげで大したこともなしにすみましたけれども、こちらからぶっつけていわゆる独り相撲なんですね。神様にお願いしておったら、頂くことがですね。あの唐黍、唐黍のまだ黒くなっていないあのあか頭らが、それを実が入っておらんじゃろかとあけて見ようるところを頂いた。いわゆるおかげ急ぎまだ黒く成就しとらん。いわゆるあか頭が黒くなる。黒くなったときが中がバチバチ実が入ったときなんです。ですからね、お互いがね、おかげ急ぎだけはせんごししようらならん。そこで私が申します様にね。結局お互いの信心の根ざしというものが本当のところおかれておらんとおかげ急ぎをするて、その根ざしがですね。本当に信心にあいわが心が紙に向こうていくのが信心と言われる様にです。その楽しみの信心であったらです。いわゆる何とはなしに調子のおおたですね。塩味を味の素は味の素と入れ間違うような事はないところに調理が出来るようにお惣菜が出来るようにおいしいおいしいと言うものがここに生まれる。いわゆる信心はありがたいなあ、ありがたいなあというものをですね。日々頂いて行くことが出来る。そのありがたいありがたいがですね、あるから、おかげ急ぎをせんでいい。それが時々辛すぎたり、甘すぎたりするから、おかげ急ぎをせんならん。まあ一つおかげ急ぎではなくて本当に時節を待っておかげを受けたらよい。しかもその時節を待つのが我が心が神に向こうて行く。信心の稽古を楽しませて頂きながら、稽古して行かなければ、いけん。ここんところをですね。本当にあの頂き心を言うものがね、いつもこう用意しとかんと丁度聞きゃあもう腹が立つ。ちょっと聞きゃあ心が迷う。乱れる。本当に目の前が真暗になるようなことを聞いてもいわば、平静でおれる、といったようなおかげをいただけれることが楽しめでの信心、その信心の稽古をしておかなければいけない。ただ今、いわば茂雄さんだけではなかろう。まだ、おにぎりに山しおでままになっていると言うようなことになっておるだろうけれども、ですから、本当に時節を待ってさあお膳の用意が出来ました。さあ、この前に座ってください、とお膳の前に座らせていただけれる様なおかげを頂くためにですね。しっかり信心の稽古をね、本当の信心の稽古を迷わんことだけではない。おかげだけではない。そういう信心をね、しておかなければいけないと思うんですよ。なかなか自分の考え方は間違ってないように思う。それは間違ってないかもしれません。あまりにも塩と味の素が似ていますものね。けれども、そのあたらしというものは、たとえば、日々言うならば、共もおかげを頂いてありがたかったとか、今日もお粗末、ご無礼であった、と心から、お詫びでの出来るような一日であるならば、まず、今日はおいしい稽古が出来たと言えましょう。**今日は無味乾燥、何の味わいもないどころが、人に言われ寝られんほど腹が立つ。心配になる。それは絶対塩と味の素と間違ってることですよ。ですから、そこんところのお詫びを本気でさせて頂いてね、お詫びが叶うたと実感出来るところまでお詫びし抜かなければ、いかんということ。そこから、慎重におかげを頂くことになる。そしてそのおかげとてもです。山海の珍味の前に座らせてもらえるようなおかげ、お互いおかげ急ぎをしてから、まあだ実が入っとらんじゃなかろうかと聞けて見るもんじゃけん。それでまだ、ビジョビジョ、ビジョビジョのおかげではつまらん。そこから、雨が降ったりすると雨が入るでしょう。開けて見るとせっかく実が入っているのが半分しか入らんだったり、するとか、腐ったりするわけなんです。ですから、本当の意味でのおかげと言うものはですね。本当に時節を待たなければ、頂けるものではない。唯地団太踏むようにして頂くおかげはね。それはなんと言うてもその教会ならその教会のおかげを頂いてその教会の御非礼が立っておるなら、それだけでおかげを頂く。いわゆる霊的な働きと言うものが私どもの上にあるから、先日も宮崎さんのように金光様と言うてその火事をその場で消すことが出来たと言ったようなですね。それは霊験なんだ。それは合楽で御像を頂いておるからのおかげなんです。そういうおかげだけがたとえば、ありがたいものであってはならない。日々がありがたいと言う信心、そしてわかること思うておかげの頂きすぎ、お礼のお礼不足、それが私どもおおにして間違えたり、取り違えたりして、これだけの信心するのにとかこれだけ真心を喪ってしよるのにと言うて反対のものが帰ってくる。それはもう絶対味の素を入れる時、塩を入れたり、塩を入れならん時に味の素を入れたりすると同じこと。だから、その真心と言うものはです。これは、間違っておったというところから、本当の信心に立ち直って来る。そこから、おかげが頂けてくると私は思うんですね。どうぞ。